北海道、其の一 (道南編)

北海道、其の一


(道南編)


旅行場所:旭川、富良野より西のエリア

期間:1982年 8月 2日~ 8月10日

行程:8月2日の朝、新神戸駅のホ-ムで上りの新幹線を待つ。いよいよ念願の北海道旅行が実現するからだ。いい想い出になればと期待しつつ、旅行前に判明した盲腸という時限爆弾を抱えた、強行軍の不安もある。日数分の薬を貰っているが、無事に旅行できるか判らない。
新幹線がホームに入って来た。ついに出発!、まずは新大阪でひかりに乗り換え東京へ、京浜東北で上野へ、新幹線リレー号で大宮へと乗り継ぎ、東北新幹線やまびこに乗り込む。座席は満員で座れず、盛岡まで我慢を決め込む。夕方、盛岡に着くと特急はつかりに乗り換えて青森を目指す。車内で青函連絡船の乗船名簿を記入し、青森に着いたら夜の9時半になるところで、家を出て、半日かかっていた。10時前に連絡船に乗船し、深夜の渡道となる。4時間程の船旅は船内で就寝。

8月3日、夜も明けない早朝、函館に上陸、北海道に着いた感慨に浸る間も無く周囲につられ走る事に。特急北斗は編成が短く自由席が1~2両しか無いので皆、席取に走るのだ。乗り込むと満員でギッシリ、長万部迄、我慢して室蘭本線に乗り換え、旧型の客車に乗りやっと座って伊達紋別へ。駅の水飲み場で飲んだ水が内臓に染み渡る。水道水がこんなに美味いなんて、北海道の人たちが羨ましく、恵まれた大地が気に入ってしまった。ここから一旦離れて、8時丁度の倶知安行きの列車で胆振線(廃線)に乗り、倶知安で昼食を食べて折り返し、伊達紋別から室蘭、苫小牧と移動し夕食にカレーを食べて、日高本線で宿泊地の静内に到着、ビジネスホテルでようやく身を落ち着けた。

8月4日、早朝から終着駅の様似へ向かう。ふと見れば抱き合って泣いている人達が、おそらく友達が土地を離れるので、別れを惜しんでいるのだろう。駅は出会いと別れの入り混じる場所である。様似から折り返して、昼には途中の鵡川で富内線(廃線)に乗り換え日高町で昼食を取り、折り返して鵡川、苫小牧という頃には夕方だった。そして岩見沢へ着き宿泊。

8月5日、宿泊先で朝食を済ませ、幌内線で幾春別、万字線で万字炭山へそれぞれ往復して砂川へ移動、今度は歌志内と上砂川の2路線を乗った。この日の4路線は炭鉱向けだったもので、その後廃線になった。砂川駅前の喫茶店には待合で2度もお世話になった。本数が少なく他にいる場所が無いのである。その後、夕方に滝川に着いたら、バスで新十津川へ移動。札沼線はかつて、その先の石狩沼田まであったそうだが、部分廃線で新十津川で途切れている。ここは奈良の十津川村の人々が移り住み、剣道の町で有名である。
札幌までは夜の移動になった。開いた窓から虫が入り閉口したが、扇風機を回して振り落としやっと落ち着いた。乗客もまばらなまま札幌市内へ。ホテルに着いたらもう夜の10時を過ぎていた。

8月6日、朝から札幌時計台を見学、ビル街の中に在るのは以外だった。途中で乗った札幌の地下鉄はゴムタイヤ式である。ここでは自動改札が導入されていた。大通公園を見ながら札幌駅へ。9時過ぎに札幌を出て一旦、千歳線の分岐点の沼ノ端へ行き、千歳空港駅(現在は南千歳駅)へ。この辺りは電化されていて電車が走っている。石勝線の列車迄、かなり時間があったので空港の店を見て廻ったり昼食を食べたりして時間を潰した。その折に夕張メロンを見て帰る前にメロンを買って行こうと思った。2時半に出発して当時の新区間、石勝線に乗った。殆ど特急しか走らない為か、駅が少ない。途中、夕方に新夕張から夕張支線(廃線)に寄道して、新得で夕食を取り根室本線で富良野に移動。当時、新得と落合の間は駅間が長いので有名だった。富良野で一悶着、夜10時頃と言っていたのに、勝手にキャンセルされていた。旅行者ですっぽかすのがいるので遅いから誤解されたらしい。たまたま空き部屋があり泊まれたが、ご主人がボイラーを止めて出かけたらしくクーラーが効かず暑かった。

8月7日、富良野を朝出発して、富良野線で旭川に移動。土地はあさひかわだが、駅名は何故かあさひがわと濁る。当時道内唯一の電車特急ライラックで札幌に移動。昼に駅前の百貨店で冷やしうどんを食べ、小沢へ移動し岩内線(廃線)を乗ってこの旅では早い夕方に長万部に到着、駅裏のホテルでゆっくり出来た。

8月8日、朝のうちに長万部を出て、国縫経由で瀬棚線(廃線)へ入り、瀬棚で折り返し昼過ぎに国縫、その後は森駅から、函館本線の旧ルートを行く。(来たときは七飯ー森間の新ルートを通っていた。)夕方、七飯で列車待ちをした後、夕方6時に函館駅に着き、ホテルへ。

8月9日、残るは2路線となり、早朝から出発。列車に乗る前に荷物になるが、夕方時間に余裕が無いので、朝市でメロンを買う。オレンジ色の夕張ではなく、青い駒ケ岳メロンだが美味そうな感じなので、まあこれでええわ、と2個抱えて乗車。午前中に江差線に乗り、木古内で2時間待ち、いよいよ松前線(廃線)で今回の北海道は予定完了である。ディーゼルカーは急行のグリーン車と特急にしかクーラーが付いて無かった時代であった。窓を開けると気持ちいい風で涼めるのは北国ならではだ。でも当時喫茶店にエアコンが無かったのには面食らった。北海道とはいえ夏は暑いし、盲腸という爆弾を抱えた身には暑さは堪えるのだ。景色を見れば牧草地と並木、雪国独特の屋根作りが印象的だった。夜の7時を過ぎて函館へ戻り、30分の待ち合わせで青函連絡船へ、いよいよ北海道と暫しのお別れである。船内の一角のTVコーナーで休憩。大岡越前が映っていたので見て、食堂で夜食のカレーライスを食べて戻ると、欽ドン良い子悪い子普通の子で、よせなべトリオ(懐かしい!)が歌っている場面だった。番組が終わるのを待って仮眠。その日のうちに青森へ接岸。駅構内は当時、連絡船が深夜・早朝にも発着するので、連絡船待合室があり、クッション付きの長椅子があったので、朝迄そこで就寝となった。

8月10日、早朝に目を覚まし、青森産のりんごを買った。まだ青いが帰る頃には食べ頃かと思った。青森始発4時45分の特急みちのくで7時過ぎに盛岡到着、東北新幹線、新幹線リレー号、京浜東北線を乗り継ぎ、東京駅に移動。時間に余裕があるので、11時40分発のこだまで豊橋へ。ここから大府へ行き、武豊線に寄道。まだ電化されずディーゼルカーである。夕方6時過ぎに名古屋に着き、ひかりに乗って夜7時51分新神戸に到着。盲腸の爆弾が爆発する事無く、無事に初めての北海道旅行は終了である。その後、盆明けに盲腸の摘出手術をして1週間で退院、後期の講義に間に合ったのである。


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